助手時代

 理科大への就職は、3年の期限が付いた助手でした。助手というよりも、実験・実習補助員のイメージでしょう。当時は大学進学希望者の増加によって大学がどんどん新設された時期であり、雨後の「タケノコ大学」とか、「駅弁大学」とか言われたものです。理科大でも修士を修了していれば、すぐに講師からはじまるほど、教員不足の時代でした。

生物と地学
 理大での仕事は、生物と地学共通の助手でした。当時は生物や地学の専門学科はなく、理科の教員免許を取るための実験のお手伝いが仕事でした。生物実験の方は、基町高校時代、大学時代、非常勤講師時代に豊富な経験があったので、難なくこなせましたが、地学実験は初めてのことでもあり、とまどいがありました。
 地学実験のお手伝いの中、断片的ではあっても石の性質などを知ることが出来ました。このような知識と体験は、その後の研究に大きな影響を与えることになったわけです。
 大学時代の先生方は生物学だけではなく、地学や化学、物理学などに関しても広い知識をお持ちでした。サイエンスそのものが細分化されていない博物学の時代にスタートされたからでした。山を歩きながら、植物だけではなく、岩石のことや含有成分などのお話、化石などに関する話題・・・・当時はまったく馬耳東風で、頭の中に残らなかった話が、実験のお手伝いを通してよみがえってきました。

研究三昧の生活 
 助手とはいっても、大学しか出ていない学卒の助手であり、今で言えば実習補佐員ていどの位置付けであったと思います。しかし、あまり雑用を申しつけられず、研究にかなりの時間を費やすことが出来ました。期限付きの助手でしたので、研究生活というよりも、今までの生物に係わってきた年月に一つの区切りをつけようと言うつもりであり、将来を見据えた研究と勉強のスタイルではなかったことが、悔やみといえば悔やみでしょう。


蒜山高原の眺め。この写真は研究室からではありませんが、ほぼこのような眺めを毎日研究室の窓から見ていたわけです

蒜山研究所の時代
 3年経っても辞めなさいとは申し渡されませんでしたが、県北の蒜山にある研究所に転勤を命じられました。蒜山研究所(現自然科学研究所、蒜山分室)のスタッフは、1名であり、特にやらなければならない仕事はないわけで、自分で目標を設定して仕事を作らなければならない所でした。
 刺激がないのは欠点でしたが、時間があるので結構仕事はできるもので、各地の湿原を調査することが出来ました。本学勤務の時代も含め、日光戦場ヶ原や霧ケ峰湿原など、じっくりと時間をかけて調査することが出来たわけでした。
 当時は、調査資金がなかったので、多くの調査は車中泊でした。これは湿原を探しながら走り回るわけで、ちゃんとした宿をあらかじめ決めておくことが出来なかったためでもありました。
 蒜山→県北→スキー:当然の連想で、蒜山に転勤する際にバーゲンのスキーを買っていきました。しかし、現実の冬は雪との格闘であり、除雪・雪下ろしが大変で、あまりスキーで遊ぶこ気にはなれませんでした。思い返せば残念です。

森を見れば湿原の存在可能性が判定できる
 山を歩いて湿原を探すのは実に大変です。1日歩いて収穫ゼロというのはあたりまえ。無駄足を重ねるたびに森林の様子と地形から、かなりの確率で湿原の存在を予想できるようになった。森林の発達の程度は地質と関係が深いことがその後にわかる。地質・地形と植生に関する研究の出発点であった。

内地留学と学位の取得
 蒜山研究所には4年間勤務したが、3年目は広島大学に内地留学することが出来た。学生時代は不熱心な学生であったので、はじめて勉強したような気がする1年間であった。「そうかそうか、研究とはこのようにしてするものか・・・・」。教室は、指導教官である鈴木兵二先生の退官の年であったので、学位ラッシュであったが、大学院も行っておらず、卒業してからの年限もたいしたことはないので、学位の対象になる可能性はないと思い、基礎から勉強することを心がけた。現在は蒜山に勤務しているコケの分類をやっている西村直樹氏が当時は大学院生であり、机を並べていた。彼にコケの分類を教えてもらうことになり、現在でも十分な同定は出来ないものの、ずいぶんと参考になった。湿原はコケの世界でもあるからである。
 じっくりと基礎的な作業をやっているさなか、12月の中ごろであったと思う。学位は要らんのか?との鈴木先生のお言葉。大変なことになってしまった。その時点から不眠不休、家に帰るのは着替えと風呂のために隔日程度。どうにか格好が出来たのは、博士論文提出期限の数時間前であったと思う。最後に滑り込んだメンバーは豊原源太郎・石橋昇、そして小生の3名でした。その際には多くの方々にご助力・ご援助いただきました。その話は、またの機会にいたします。

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