バーテンダー −カウンターの中から観た世界−

 結局、通算では4年間ぐらいカウンターの内外で働いたであろうか。働いていた店は、昼間は軽食喫茶、夜間はアルコールと軽食といった感じの店であった。店がはねるのは朝の3時頃、金計算と掃除・翌日の仕込みを終えると、夜も白み始める頃に店を出る毎日。朝一こま目に講義があるときには、そのまま登校し、教室で仮眠を取って先生が来られると級友が起こしてくれる仕組みであったが、出席の返事をすると寝てしまうのは当たり前であった。

まずは氷割からの修行
 現在よりもはるかにウイスキーが高価であったためであろうか。カウンターの中にいた頃は、カクテル全盛時代であり、カクテルやフィーズを作らなくてはならない。現在のようにウイスキーの水割りとビールで済むわけではなく、何百種類もあるカクテルの作り方を憶えなくてはならないのである。まずは氷割の修行から始まる。氷屋さんから配達されてきた大きな氷の塊をアイスピックで適当な大きさに割る。この適当な大きさが問題なのである。シェーカーに幾種類かの材料を入れて振るわけであるが、氷が小さいと水っぽくなってしまうし、大きいと十分に冷却されない。熱心にシェーカーを振っていると、すぐにカクテルの量が1.5倍くらいに増えてしまう。カクテルをチャンと作るためには、適度な大きさと形を備えた氷が必要なのである。

カクテル全書
 カクテルの作り方を記載したカクテル全書というものがあった。厚さは10cmほどもあったかと思う。これにウオッカベースとか、ジンベースなどに分けて調合割合とデコレーション方法などが記載されている。メジャーなカクテルやフィーズものは当然憶えなくてはならない。難しいカクテルとか、聞きなれないヤツは準備をしたり、お客さんと談笑しながらカウンターの下でカクテル全書をめくって調べることになる。
 カクテルの世界はどんどん新作が出てくる。「流れ川の夜」とか「マイアミの虹」・・・・??? 特に彼女を連れたキザなひとが聞いたことのないようなカクテルを声高に注文してくる。こうなると困ってしまう。注文した本人にどのように作るのか聞いても知っているはずはない。時には「ハイわかりました」と答えて、よく似た名前のカクテルをちょっと趣を変えて出してみる。「コレダ コレダ!」・・・お客さんにとっては、要は雰囲気であり、微妙な味はあまり意味がないのであろう。

銀座のホステス
 ある日出勤してみると、美しいホステスがスタッフに加わっていた。接客態度がものすごい。美しいのである。お客に媚びたところは微塵もなく、会話が充実している。お客は話し込んでドリンクの量が減ってしまうほどである。元々客筋の良い店であったのだが、その中のメジャーグループをすぐに取り込んでしまった。お客さんの話の中に、実にスムーズに入っていく。重役同志の会話が、最後には彼女の話をうなずきながら聞いている。かえる頃には、酔いも醒め、元気になってかえって行くみたい。この女、何者だろう・・・?
 昼過ぎに店を訪れたとき、彼女は英字新聞を読んでいた。辞書も使わず、経済欄などを斜め読みしている。時々手帳にメモし、英字新聞を読み終わると本を読み始めた。このような情報が、会話の中で活かされているのであろう。
 彼女は銀座の一流ホステスであった。金銭的なトラブルで広島に流れてきたのだという。ちょっと会話がとぎれると「一曲歌ってください!」などと歌本を差し出すことしか能のないホステスが多いこのごろであるが、雲泥の差である。金を出して飲みに(会いに)行く価値がある。
 彼女は1ヶ月ほどで突然いなくなった。追ってがかかっているホステスはそんなものらしい。トラブルを抱えたホステスは、東京から西に向かって流れるという。次は博多であろうか。「ホステスとはこのようなものだ」というお手本を見せていただいた。

1人で店を任される
 小さな店を任された時期がある。席はカウンターが主で、椅子席はほんのわずかであった。小さいとはいえ、内装は凝った物で天井には当時で30万円(ちょうど軽自動車の値段)のシャンデリア、一郭にはエレクトーンが置いてあった。かなり高い店で、ホワイトホースやオールドパーなどのウイスキーがたくさん置いてあった。これらのウイスキーの価格は、現在の方が安い。現在でも1万円前後する高級ウイスキーを飲ますのであるが、瓶の底にシングルがいくらかの価格が書いてある。1本のボトルから24杯取るわけであるが、ボトルの値段を3倍して24で割った値がほぼ一杯の価格となる。当時の金銭感覚では、信じられない高価なものであった。
 お客さんはほとんど来ない。常連さんは○電気支店長さんとか、△産業社長などが時たまふらっと女の子を連れて来る程度。この店のもっとも常連のお客さんは○電気のお偉いさんで、女の子を連れてエレクトーンを弾きに来る。すこぶるうまい。喉もすばらしく、バラードなんぞは聞き惚れてしまう。当時はカラオケはなかったので、歌詞本と生演奏、マイクを通さない生声であった。こんな技が大変うらやましかった。
 この店での仕事はひたすら「壁」であり、いらっしゃいませ、何になさいますか? ありがとうございました 以外はほとんどしゃべらなくても良かった。代金も会社に請求するので、受け取る必要もない。ただ、どこの誰かだけは、しっかりと憶えておく必要がある。これは大問題であった。どちらさんでしたっけ? などとは口が裂けても言えないのである。

お坊さん
 ある夜、お坊さんが閉店時間になってもなかなか帰らない。やがて鞄の中から大量の8ミリフィルムを取りだし、ブルーフィルムを見ようと言い出した。8ミリ映写機を調達し、閉店した店内で映写会が始まった。スクリーンがなかったので、カーテンに写すことにした。
 なるほど! 外人はすごい! などと見ている最中に勝手口からなじみのお客が入ってくる。「おーい、外に人集りができとるで」 カーテンの向こう側に映像が透けており、道路側に通行人の人集りができていたのであった。お坊さんはそそくさとフィルムをしまい込み、出ていってしまった。家では映写できないのだそうだ。
 「お坊さん・警察官・教員」の3職種が飲み屋でお行儀が悪い人たちであるといわれている。一般人では当たり前のレベルであっても、羽目を外すことが度が過ぎてしまった場合には風当たりが強いということであろうと思われるが、確かに「おや?」と思いたくなるような事は何度もあった。
 高校の非常勤をやっていた時代は、飲む際にも脳裏のどこかに自省的な部分があった。その事に気づいたのは大学の教員になってからである。大学の教員は何をやっても良いというわけではないが、女子高生は厳しい。赤い顔で町を歩いているのを生徒に見られ、翌日には全学に知れ渡っているという事があった。地元では千鳥足は許されない。もっとも、最近はカウンターの内外にバイトの大学生が多数働いており、うっかりしたことは話せない状況になってしまった。飲み屋で憂さ晴らしという時代は終わったのであろう。

カウンターの中から見た涙
 カウンターのなかで仕事をしていると、前に座った女の子がやがて泣き始めた。こんな時は大変困ってしまう。声をかけるべきか、かけざるべきか・・・・・ きっかけを作って声をかけると、近くのR座、ストリップ劇場の踊り子さんだった。仕事が辛いという。何が辛かったのかは、ここでは書き辛い。やがて気を取り直したのか、笑い声も出るようになり、帰っていった。帰るときに入場券を差し出しながら、「お兄さん見に来てね」・・・・辛いといって泣いたこのストリップなど見に行けるものではない。残念ながらタダ券は期限が来て無駄になってしまった。
 ストリップに関しては、最初に裏側の世界を知ってしまった。おかげさまで幾多の機会がありながら、ストリップを観ることができなかった。まずは表口から入るべきであったと悔やむ事の1つである。

飲みにいけませんでした
 カウンターの中の経験があると、飲みに行くと値踏みしてしまう。「この程度の女の子で、この内装、この金額は高い!」 ついつ、ビールが何本、おつまみいくら 等等が自然に頭の中で積算されてしまう。アルコールを勧められると、「売り上げをあげるつもり?」と思ってしまう(自分がやってきたことですが・・・)。
 席を立つ段階で、金額が妥当であれば楽しく帰ることができるが、高いと気分が悪い。結局、岡山に来てからはあまり飲みに行けませんでした。これも裏道から先に経験したことのデメリットです。

バーテンは歳取ってから
 夜の仕事は様々な人に出会えて楽しかった。しかし、客商売は顔なじみの人ばかりが来てくれるわけではなく、バーテンとしては様々な人と話を合わす技量が求められる。若干二十歳の青年にそのような事ができるはずはない。気楽ではある反面、話題の少なさ、人扱いの下手さは悩みの種ではあった。夜の世界への誘いは何度もあったが、人生経験の少ないことはどうにもならない。十分歳を取って枯れた頃にバーテンをやってみたい。そんなイメージを持っている人は、少なくないであろう。

もどる