生まれと育ち
生まれ:1948年1月、広島市にて第二次世界大戦直後のベビーブーム世代として出生

幼児期:7人兄弟の末っ子として、貧しいながら恵まれた環境で育つ。
姉(5人)達のおもちゃであり、引っ張りまわされて肩がよく抜けた。

小学校時代:本を読むのが大好きで、図書館の本だけではなく、兄や姉の本を読みあさった。
運動下手な暗い子供。
夏休みの宿題で、色が変わっていない植物標本の提出を課題とされ、コケの標本を提出。
色は変わっていなかったが、名前がわからない。
戦前版のカタカナ書きの牧野植物図鑑しかなかったのですから・・・・。
このほか、鼓笛隊で横笛を担当。この頃の家業は建築業。

中学校時代:生物部に所属し、クモとコケの研究を行う。
蜘蛛男と呼ばれる時代。
クモに餌を与えるためにハエを採る毎日。
当時はクモに関する図鑑が全くなかったので、大きな壁にぶち当たる(普通種以外は、全部新種になってしまう)。
結局、運動神経がないことと、眼が悪いので動く昆虫や樹高の高い植物を相手にできなかったようです。
この頃の家業は土建業。大規模宅地造成の先駆けでした。
波田組のぼんぼん、ブルドーザーを運転して遊ぶ。

高等学校時代:ブラスバンド部に入るか、生物部に入るか迷う。
「金にならんことは止めろ!」という家族の反対で、ブラスバンド部に入ることは当面断念し、とりあえず生物部に入る(生物部が金になるとは思えませんでしたが)。
先生につれられ、広島大学に行く機会があった。
コケの標本がズラリと並んでおり、圧倒されてコケの研究は断念。
進学では、造園関係の学科に行きたかったが、経済的理由で断念。
広大の理学部にするか、教育学部にするかで迷ったが、先生のアドバイスで理学部生物学科の植物学専攻を受験。
試験問題漏洩事件で合格発表が遅れる。
その間はじめてパチンコをやり、ボロ勝ちする(これがその後の人生を変えてしまった)。
結果としては、まぐれで合格。この頃は倒産しており、以後家業はなし。

大学時代前期:学費・生活費かせぎのためにアルバイト三昧の生活。
アルバイトの種類:エクステリア施行業者(門扉、フェンス、ベンチ、滑り台などの建設請負→最初はアルバイト;後に下請け工事を受注するようになった)
塾(最初は雇われ講師→後に塾経営;大赤字で断念)
バーテン(最初はアルバイト、一時は店を一軒まかされる状況に)
家庭教師、百科事典ブリタニカの訪問販売員(これは向いていなかった)
パチプロ・・・・その他、多数。

サークル活動も熱心:演劇、登山、コーラス・・・。
大学3年生の後期試験直前に交通事故。
半年の入院・療養生活。出てきたら、大学は「大学紛争」で封鎖中。
この3年間は、ほとんど勉強らしい勉強はしませんでした。

大学生活後期:交通事故などで、普通よりも2年長く大学生を経験しました。
卒論は「広島県の湿原植生」。
5年目と6年目は、大学を卒業していないにもかかわらず、公立高校で非常勤講師を経験。
寮の舎監にもなり、学校に週2日ほど泊り込む生活。
雑用のない教員生活を送ることができ、今までの人生の中でも最もすばらしい2年間を送ることができました。
この時点に於ける将来の目標は高校教員になることでした。
振り返ってみるともっとも悩み深い時期であり、自分の思考形態が激変した時期であったからであり、そのような時期の生徒と暮らしたかったからです。

この2年間は、結構勉強した月日でした。
卒業が近づいた時点では、大学時代の豊富なアルバイト経験を活かし、自分で会社を興すつもりでした。
年も押し迫った頃、指導教官が理科大の助手の話をもってきてくれました。
随分と悩みましたが、これまで中学3年+高校3年+大学6年の合計12年間生物に関係していたので、もう少し生物に関わってみようと言う気になりました。

理大に赴任してから:1972年の春、理学部の助手として赴任。
3年の期限付きの助手でしたが、いまだ辞めて下さいとは申し渡されず、その後学長になってしまいました。
学長になると、講義やゼミなど、普通の教員がやる仕事は行わないのが普通ですが、講義もゼミも引き続き行ってきました。
学長を辞めてからも仕事ができるようにということだったのですが、2期8年も学長をやってしまいました。
学長の任期終了と同時に定年になってしまいましたが、特担教授として再任用していただきました。
いま少し講義や研究で大学に住まわさせていただきます。

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